空に優る景色は地面にしかない

あらゆる文章をとりあえず載せておくブログ

自分の心の声を聴く

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 欲求を制御しようと思ったことがあまりない。関わってくれる人のために我慢することはあるけれど、自分自身は欲求に食い尽くされる可能性を考えていない。なぜだろう。どこかで破綻しないと思い込んでいるのだろうか。いや、実際に破綻はしないのだと思う。確かにあらゆる選択に犠牲はつきものだ。きっと無意識にその犠牲となっているものと、獲得しているものとを天秤にかけている。得ているものに価値を置いている。

 コミュニケーションと創作は相性が悪い。人と話している間は創作することができない。創作は基本一人でやるものだ(演劇などでない限り)。創作を中心に据えた生活にすると、人との交流は私の場合極端に減る。というのも今の生活がコミュニケーションをとることを中心に据えているからだった。しかし、コミュニケーションを仮に削って一体私は何を創作するのだろう。きっと綿密なコミュニケーションの末でなければ創り得ない何かを作ろうとしているのではないだろうか。

 音楽は言葉との結びつきが弱いけれど、全く関係がないわけではない。言語感覚は音楽に表れるものであるし、民族音楽や流行りの歌を聴いていても感じる。私はリズム感覚に弱い自覚があり、リズムが最終的には自分の課題になってくることも分かっている。もし、いま人と話すことを肯定的に捉えようとするなら、きっと私は会話をすることによって、会話におけるリズム感覚を習得しようとしているのではないかと推測できる。それは音楽を扱うときにも影響してくるという確信がある。
 私は書くことも望んでいるから、書くことと会話は結びつきが強いものであるし、やはりその意味でも人と話すことは無駄になり得ない。

 もっと言えば、これはコミュニケーションに限定した話ではない。日々の暮らしぶりは創作に影響を与える。どれだけ切り離そうとしても、完全に断ち切ることは不可能である。読書や勉強をして得られる経験を軽視しているわけではないが、一次的に獲得したもの(すなわち経験で得られるもの)は二次的に得たものよりも、人に強く影響を及ぼす。だから人はさまざまな新しいことに日々触れようとする。同じような生活をしていると、時間が、生活がやせ衰えてしまうからだ。
 いまは創作する時間を多くとるべきでないと強く感じる。会話はアウトプットとインプットの両側面があるので、どちらであるともいえるけれど、ここ数年はインプットを意識して活動している。そうでなければ物語の続きが書けないと感じた。音楽も手癖で作っていたのもあり、似たりよったりになっていることに気づいたから作りやめていた。活動は単純にインプットやアウトプットで切り分けられないとも思うし、日々必死に生きているから私は自分の暮らしぶりや選択に関して後悔は全くない。
 私は芸術至上主義ではない。生活至上主義でもない。そのあいだにいる。しかし、順序としては生活がまずあり、その後に芸術がある。生活と芸術両者を豊かにすることは非常に難しいけれど、私はどちらか一方を選択することをしない。なぜなら私の目指している世界は、どちらか一方のみでは成り立たないからだった。