空に優る景色は地面にしかない

あらゆる文章をとりあえず載せておくブログ

老いは死よりも差し迫った恐怖を覚えさせる

 雨の降った記憶がないまま梅雨が明けてしまった。紫陽花に思いを馳せる暇もなく、温い風が容赦なく網戸にした窓から入ってくる。熱や日差しを遮断するために窓を閉め、カーテンを閉じても熱が侵入してくる。頼りない布はいとも簡単に熱の侵入を許してしまう。

 私の心はいつも開かれているようで、時折閉じていることもあると気づく。人見知りをする時期の子どものまま年月を重ねたみたいに、初めての人に遭遇すると、物陰に隠れてそっと様子を窺っている。ネットの空間でもそれはそうで、情報が全くない状態で誰かに遭遇するとじっと黙って聞き耳を立てている。優しく声をかけられればすぐに心を許す。意地悪されれば意地悪する。私は単なる鏡だった。でもきっと、誰にとっても他者は鏡なんだろう。

 水の珠を手に入れた私は眺めたり、触ったりして遊んでいた。喜びをいっぱいにしてその水の珠を可愛がった。水物だから掴めないけれど、自分なりに遊び方を編み出して、変化し続けるそれをただ目で追いかけていた。追いかけ続けて満足して、ガラスの器に入ったそれを机の隅に置いて休ませた。水の珠とは良い距離感だと思う。

 怖いのは、何もかもが変わり続けることだと誰かが言っていた。でも、私は誰かが私のせいで成長をやめたり、夢を諦めてしまったりすることの方がもっと怖い。言葉や物理的に攻撃されるよりもずっとずっと怖いのだ。自分みたいに考えを更新し続けて、生き方を更新し続けてほしいなんて押し付けがましく思っていたことに自分自身で驚いてしまった。寛容であることは、人の停滞を受容することなのだろうか。自己増幅欲を失った人がどんどん縮小していくさまを私は黙って見守ることができるのだろうか。死にリアリティを抱けない私には、老いは死よりも差し迫った恐怖を覚えさせる。

 歩みを止めてしまったある人が、何年も前と同じ考えを壊れたテープレコーダーのようにSNSで呟き続けているのを時々見に行く。おそらく亡くなってしまった人の更新されないページを眺めているよりもなぜかリアリティがあって、見かける度に痛みを伴う恐ろしさがある。自分がいつかそうなる可能性もあるから、他人事として受け取ることはできない。見てはいけないものを覗き見るように、よくない行為だと思いつつやめられずにいる。

 心を閉ざすと人はある意味で停止するのだと最近思う。幼さとは違った、停止している印象を話の端々から感じ取ってしまう。そういうときに私はその人個人ではなく、社会を見ているような感覚になる。もちろん個人的な問題は大いにあるのだけれど、心を閉ざしている人は一人ではなくたくさんいる。心を閉ざしている人の独りよがりな、しかし切実な叫び声が聞こえてくる。私にはどうすることもできない、無力だと思ってしまうから本当は耳を塞ぎたいけれど、そんなことをしてしまったら自分まで停止してしまう。ああそうか、自分の中にも停止している部分があるんだきっと。だから心を閉ざしている人を見捨てることができない。でもどうすればいいのだろう。無理にこじ開けようとして失敗したことがたくさんある。私も逆の立場だったら、返って引き籠もってしまうようなひどいやり方だったと反省している。

 熱気に押されて、何もかもがどうでもいいように、怠惰に流れていきそうで良くないから、エアコンをつけて何かを生産しようと思い立って、最近考えていることを書き出してみた。私がいつも他人のことを考えているのはお人好しだからではない。他者は鏡だ。ゆえに自分のことを考えているのとそう変わらない。双極性障害になって唯一といっていいほど良かったことは、自分と向き合う時間をたっぷりとれた点だろう。そんな私ができることとは何だろうと最近よく考える。心の底から良いと思えることをしたい。芸術もそう。奇を衒うのでなく、王道だからやってみるのでもなく、自分が本当に良いと思った方向性で表現すべきなんだ、と最近思う。時間はそんなにない。でも形にしたい。きっと形にしてみせる。