空に優る景色は地面にしかない

あらゆる文章をとりあえず載せておくブログ

欲しいものは日常に紛れているし、知りたいことは既知に埋もれている

 作品の巧拙について(巧拙は技術的な面でしか言えないと私は思う)分からないのは、下手なことを馬鹿にする人の態度だろう。どんなに懸命にやっても下手だと笑われて終わってしまうのはあまりにもひどいし、それは人が何かを生産する上で大きな足枷となっている。

 窘められて気力を削がれてしまう。先の話とは別の事情だけれど、気力をなくさせる点においてさほど違いはなかった。人に甘く見られていた。憤るほどの相手への期待も持てない。

 

 爪を整えてジェルネイルを施すだけで気分は晴れやかになる。そんな些細なことで人は変われるんだった。そんな些細なことの積み重ねが今を、私を形作っていた。

 

 同意できる投稿を見て、その話に対する反響のなさに驚く一方で、ないことの方が自然に感じてしまう。なぜなら、書かれてあることはきっと多くの人にとって既知であったからだ。重要なことはすでに世に出ていることが多い。未知の、鮮烈なものを人は好むかもしれないけれど、よくよく考えてみればその鮮烈さは大したことがなかったり、逆に自分にとって既知であったはずの事象の未知性に触れて、いつまでも記憶にこびりついていたりすることがある。投稿の内容は一見すると既知であったけれど、よくよく読んでみれば書き手と同様に気づきを得られるものだった。

 

 私たちの欲しいものは日常に紛れているし、知りたいことは既知に埋もれているのかもしれない。その予感はずっと前からあったけれど、最近確信に近づきつつある。

 

 誤りや拙さを跳ね除ける強いメンタルなんて正直私にはない。でも、勇気を出して誤ってみる、拙さを受け入れてみることでしか次にいけないのなら、つらいけれど、じっと耐えるしかない。笑われてもいいとは思ってないけれど、笑われるしかないのなら笑われておく。愚かだと思われるなら思われておく。そういった他者を置いて私は行く。窘められて、それならやめておこうと従順すぎる幼かった私とハグして、手を振る。決別。

 暗闇ではない、仄かな灯火が自分の中にも傍にもある。十分すぎる環境。