空に優る景色は地面にしかない

あらゆる文章をとりあえず載せておくブログ

玉ねぎのような人たち

 玉ねぎのような人たちがいる。あるはずの芯が隠されてしまい、剥いても剥いても何も出てこない。本来悩まなくていいことを悩み、盲目的に自分さがしをしている。一体なぜ彼/彼女たちは玉ねぎ化してしまったのだろうか。

 

強い憧憬の光と影

 玉ねぎ化してしまった人のなかには、強すぎる憧れを抱いて自分を見失った人がいる。憧れ自体は決して悪いものではないことに留意したい。というのも、人は憧れることでさまざまなことを頑張れる。取り組める。目標に向かって自分を高めることができるのだ。


 ところが、憧れが強すぎると足元をすくわれてしまう。たとえば、アインシュタインモーツァルトになりたいと思っても、我々はアインシュタインモーツァルト自身になり代わることはできない。では、アインシュタインモーツァルトのような天才になることは可能か。私はなれると信じている。「天才」と呼ばれる人は、結果的に天才になった。つまり、彼/彼女らは天才になりたくてなったわけではない。その意味で我々は天才を目指しても天才にはなれない。彼/彼女らは研究や創作の過程で何らかの発見をしたに違いない。その発見の結果、天才になったのだ。同様に我々が何らかの発見をすることは可能だと思う。それが歴史的に残るものかどうかはさておきだ。そういった意味で、我々はアインシュタインモーツァルトのようになれる。自分を見失わず、時間を浪費しなければ。強すぎる憧れがあると、歴史に残る何かを成し遂げようという邪念によって発見は妨げられ、隠されてしまう。

 

玉ねぎの種類

 玉ねぎのような人たちの中にも種類があることに気づく。例えば自分だけの文体を獲得しようと志し、苦心する創作者。人に「すごい」と言われたいがゆえに肩書きを求める者。自分らしさがなんなのか掴めず、漠然とした不安や生きづらさを感じている者。


 一番目の人の場合、案外すぐにでも解決しそうな感じが私はしている。なぜなら、一番目の人は玉ねぎのようで実際は玉ねぎでない人だからだ。技術的な問題として、どう自分らしさを表現したらいいのか悩んでいるだけで、自分らしさがないわけではない。そういった人に私が何か声をかけるとすれば、「言葉の性質に着目してはどうだろう」と話すかもしれない。言葉は誰かと考えを共有するために生まれたツールであり、そのツールは他人と共通でなければならないという性質を孕んでいる。文法や語彙といった、使用している言語の決まりに則ったものである。人と共有するものであるがゆえに、極端な話、文体にこだわりすぎると、意味が伝わらなくなるのだ。だから、独自の文体を見つけようとすることは、書き手としては悩むべき問題であるに違いないが、どこかで不可能であることを知りながら、探っていくほかないのである。


 では二番目の人の場合どうだろう。「すごい」と言われたい人は、裏を返せば自分のことをすごいと思っていないのかもしれないなと思う。肯定が自分の中で完了していないために、外部に求めている状態なのだ。この場合は、「根拠なき自信を持とう」で解決する。いや、そんな簡単に持てるわけないだろう、何か根拠がある方が確実じゃないのかと思うかもしれないが、根拠のある自信はその根拠が揺らぐと、崩れ去ってしまう。自信は根拠がなければないほど本物なのだ。自信さえ持てれば、他人に見下されようと、馬鹿にされようと、自分はすごいとなるので問題にならない。自信がないと、いつまでも外部に依存することになる。それではアインシュタインモーツァルトのような発見はできそうにない。根拠なき自信について詳しく話すと、それだけでかなり長くなりそうなので今回は書かないが、根拠なき自信は誇りに近いので、持つか持たないかは自分次第だと私は思う。


 三番目はどうだろう。ここまで丁寧に書いておいてなんだが、実は、三者とも悩むに値しないのではと私は思っている。なぜなら、先に述べたとおり、悩むべき重要な問題はそのほかにあるからだ。重要なのは、日々生活をしながら何らかの発見をすること。書き留めること。伝えること。自分らしさは自ずと出てくる。自分が何かに触れたとき、素直に感じとれたら、すでに自分らしい世界の見え方であり、感じ方である。それを素直に表現できれば、技術的な不足はあるかもしれないが、少なくとも自分らしいものになっているはずである。技術は鍛えれば向上する。自分らしさとは、成長の過程で獲得するものではなく、日々の発見の下地として再発見するものだと考える。

 

哲学書ではなく、小説を読め

 三番目の茫漠とした不安感や生きづらさは、きっと現代社会のあり方と強く結びついている。無宗教な人が多い今、代わりとして自己啓発書が売れているのかもしれないし、哲学に関心を持つ人も増えている印象がある。皆この世をどう歩いたらいいのか分からない。自己啓発書は手軽に自分を高めたり、モチベーションを上げたりするのに有用な気がするので手を伸ばしたくなる気持ちはわかるが、哲学書を読む人のなかには小説を読んだ方が良い人もいるなと感じている。というのも、哲学は一学問であり、論理的に話が進められるし、真理を求めるのが最終の目的であって、自分らしさの発見や生きづらさの解消のために手に取ると、結果、随分遠回りをすることになる気がしてしまうのだ。だから、哲学書を難しいと思う理由の一つとして、読む時の態度や目的が書き手がイメージした本来の読み手像と異なるからということが考えられる。


 「自分さがしを題材にした読み物って何かないっけ」と考えたとき、真っ先に思い浮かんだ。あるある。そうだよ、文学だよ。小説を読むべきなんだよ。前から不思議に思っていたことが一つある。自己啓発書や哲学書を手に取る人の中には、小説などの文学にほとんど触れずに生活をしている人がいる。私の周りにもいる。理由を尋ねると、「フィクションだから」といわれる。私はこの「フィクションだから」がよく分からない。小説は確かにフィクション、つくりものである。しかし、小説とは読み手が想像を働かせることで登場人物を、描かれている物事一つ一つを生き生きとさせることができるのだ。書と読み手が共同で一つの物語をつくりあげる。小説はつくりものだけど、読書という過程を経ると、現実味を帯びる。私の言葉でいうと切実性が増すのだ。つくりものであっても、切実でないわけじゃないのだ。


 きっと、読む人のなかには小説を読むことによってすでに何かの発見をする。優れた哲学書が何かを発見した結果であるように、小説には書き手が何かを発見した結果が記述されているのだ。書き手と同様の発見をするかは分からないが、小説を読むことで何らかの発見をすることはそう珍しいことでない。

 

脱玉ねぎ化するとどうなるか

 玉ねぎのような人たちが、玉ねぎ状態を脱するとどうなるのかについて少し話しておく。芯がしっかりあるので、ブレることなくあらゆることに自分らしさがにじみ出る。そんなに自分というものを意識しなくても、自分らしさがあらわれる。そして、アインシュタインモーツァルトのような人になれる可能性を獲得する。つまり、何らかの発見をするための準備が整う。ぼんやりと感じていた幸の薄さが消える。強すぎる憧れを抱くこともなく、周りと自分を比較して、気に病むことはない。まあ、たまには病むかもしれないけれど、一歩ずつ前進あるのみだと向上しようとする。

 

 

 いかがだっただろうか。ほんの少しでも考えるヒントや契機になれば嬉しい。私はみんなが脱玉ねぎ化して、安心して暮らせることを願っている。