空に優る景色は地面にしかない

あらゆる文章をとりあえず載せておくブログ

ちょっと悩み。

 朝5時、ネズミのカリカリ音で目が覚めた。と思ったけど、ネズミのカリカリ音ではなく、おそらく雨がどこかに当たっている時の音だった。少しだけうだうだして、起きる。おばあちゃんが料理をしている。朝から晩まで良く働く。昨夜おばあちゃんが話していたことを思い出す。「女に生まれたばっかりに、百姓仕事も家事もせなならん」。今でこそパートナーとの関係性によってその辺りの事情は変わってくるけれど、昔の田舎では違ったのかもしれない。おばあちゃんは恋愛結婚ではなかった。本当はおじいちゃんとは一緒になりたくなかったという話も聞いている。けれど、二人が一緒になったことによって結果自分が生まれていることを考えると、なんとも言えない気持ちになる。

 おばあちゃんの家では、女は男ほど力がないので、力仕事を除いたすべての仕事をやることになっている。男は力仕事をやる。炊事洗濯はしない。昼休みになると、男は家で座ってご飯を待っている。女は田畑から一緒に帰ってきて、料理と後片付けをやる。ご飯は基本的に子どもと男が先に食べる。女は後から食べる。おばあちゃんの家ではお風呂は未だに焚き付ける必要があるので、昼過ぎから木材や紙などを燃やして沸かす。昼から沸かすと夕方に丁度良い感じになる。これも女の仕事。子どもの面倒を見るのも女の仕事。だから、人手があるときは農作業をする女性と家事をする女性と分かれて行う。子どもも男女で全然異なる。女の子は小さい頃から手伝いをするように躾けられる。男の子はゲームをして遊んでいる。これだけの差があっても誰も不満を漏らさない。不思議な世界である。

 私は人よりも動けない。と思う自分を抜きにしても、実際動けていないのは周知の事実だ(母に言われる)。頑張ればできるかもしれないけれど、塞ぎ込んでしまう時期が出てくるのでそれがつらい。だから働き者なおばあちゃんや母を見たり、話を聞いていたりすると、隔たりをすごく感じる。農作業をやると、家事まで手が回らなくなるし、家事をやると農作業までやる元気がなくなる。文句を言わずにどちらもやる女性たちはすごい。でもそれは、彼女たちが主体的であるからだと思う。やらされているわけではなく、自らが進んでやっているし、基本的には男性を憎むことなく立てている。私にはその辺りがちょっと理解するのが難しく思える。もう少し自分がやりたいと思う形で手伝いに参加したいし、やらないことを責められるのはごめんだと言いたいけれど、なかなか難しい気がする。

 よく働く人にはなりたかったけれど、なれない現実を受け止めてもなお、それを受容しない周囲の人によって、私は苦しまずにはいられないのかもしれない。自分なりに頑張るだけじゃ許されないのかな。