空に優る景色は地面にしかない

あらゆる文章をとりあえず載せておくブログ

動きたくない

 扇情的な映像、音。平滑化されたそれを摂取する。脳に傷がつく。自傷行為

 空は明い、一日はすでに始まっていた。暗がりの喪失によって空白の時間を見つける。半時間ものあいだ、時間に乗ることができなかった。静止した心。昼間のような外の世界。

 コール音が聞こえる。電話に出る。話し終える。朝食を済ませる。怠惰に過ごす。AVの代替品としてメタルを聴く。分析してしまう自分にうんざりする。音楽を摂取するのをやめる。

 本を眺める。振り返る。少しメモを取る。忘れていた記憶が甦る。ノスタルジック。

 母から声をかけられる。ヘッドホンをつけていてよく聞こえない。集中が途切れる。何と言ったのか尋ねる。グルメ情報だった。何も思わない。

 イースターらしい。満月らしい。興味がない。文化を、自然を愛せない。

 音楽を少しする。何も考えなくていい類の作業をする。作業に飽きる。

 眠気。倦怠。身体の不調を無視する。目が悪い。無視する。

 呼吸する。吸い込む。吐く。吸い込む。吐く。吸い込む。吐く。吐く。吸い込む。

 流れるように一日を終えたいと願いながら叶わない。佇む。世界に慣れない。動きたくない。何もしたくない。叶わない。耐えがたい苦痛。

自分の心の声を聴く

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 欲求を制御しようと思ったことがあまりない。関わってくれる人のために我慢することはあるけれど、自分自身は欲求に食い尽くされる可能性を考えていない。なぜだろう。どこかで破綻しないと思い込んでいるのだろうか。いや、実際に破綻はしないのだと思う。確かにあらゆる選択に犠牲はつきものだ。きっと無意識にその犠牲となっているものと、獲得しているものとを天秤にかけている。得ているものに価値を置いている。

 コミュニケーションと創作は相性が悪い。人と話している間は創作することができない。創作は基本一人でやるものだ(演劇などでない限り)。創作を中心に据えた生活にすると、人との交流は私の場合極端に減る。というのも今の生活がコミュニケーションをとることを中心に据えているからだった。しかし、コミュニケーションを仮に削って一体私は何を創作するのだろう。きっと綿密なコミュニケーションの末でなければ創り得ない何かを作ろうとしているのではないだろうか。

 音楽は言葉との結びつきが弱いけれど、全く関係がないわけではない。言語感覚は音楽に表れるものであるし、民族音楽や流行りの歌を聴いていても感じる。私はリズム感覚に弱い自覚があり、リズムが最終的には自分の課題になってくることも分かっている。もし、いま人と話すことを肯定的に捉えようとするなら、きっと私は会話をすることによって、会話におけるリズム感覚を習得しようとしているのではないかと推測できる。それは音楽を扱うときにも影響してくるという確信がある。
 私は書くことも望んでいるから、書くことと会話は結びつきが強いものであるし、やはりその意味でも人と話すことは無駄になり得ない。

 もっと言えば、これはコミュニケーションに限定した話ではない。日々の暮らしぶりは創作に影響を与える。どれだけ切り離そうとしても、完全に断ち切ることは不可能である。読書や勉強をして得られる経験を軽視しているわけではないが、一次的に獲得したもの(すなわち経験で得られるもの)は二次的に得たものよりも、人に強く影響を及ぼす。だから人はさまざまな新しいことに日々触れようとする。同じような生活をしていると、時間が、生活がやせ衰えてしまうからだ。
 いまは創作する時間を多くとるべきでないと強く感じる。会話はアウトプットとインプットの両側面があるので、どちらであるともいえるけれど、ここ数年はインプットを意識して活動している。そうでなければ物語の続きが書けないと感じた。音楽も手癖で作っていたのもあり、似たりよったりになっていることに気づいたから作りやめていた。活動は単純にインプットやアウトプットで切り分けられないとも思うし、日々必死に生きているから私は自分の暮らしぶりや選択に関して後悔は全くない。
 私は芸術至上主義ではない。生活至上主義でもない。そのあいだにいる。しかし、順序としては生活がまずあり、その後に芸術がある。生活と芸術両者を豊かにすることは非常に難しいけれど、私はどちらか一方を選択することをしない。なぜなら私の目指している世界は、どちらか一方のみでは成り立たないからだった。

「求めゆくことそれ自体が色褪せる」

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 普通の日記を書く。久しぶりにGARNET CROWを聴いている。聴き込んでいたのは学生時代だからきっと学生の時を思い出せる。そんな期待を込めて聴いているけど、分析的なイメージしか湧き起こらなくて早々に諦めた。音楽はこんなに空っぽだったのかと思ってしまうほど今日の私は音楽を素直に聴くことができない。いや、歌詞の意味や聴いていた頃の記憶を思い出そうとしている聴き方の方がきっと「音楽を聴いていない」のであって、「この音チープだな」や「やっぱり自分のピッチ感覚は若干高めがデフォルトだな」などと思って聴いている今の方が「聴いている」のかもしれない。そんなことはどうでもいいんだ。今日はどうでもいい。

 

 友達のことを少し思っている。詳細を書くのは避けるけれど、その人の様子は最近大丈夫な感じがしない。内省ができる人だから勝手に成長するだろうし、発展していくのだと安心していたのだけれど、そうでもないんじゃないかという気がし始めている。ちょっと、いや大分心配だ。でも私にはどうすることもできない。ただ黙って話を聴いていることしかできない。過度の干渉はその人の生き方の否定になるだろうし、自分の考えが正しいとは思っていないので人を救おうなどと烏滸がましいことを考えてしまうわけでもない。ああ、どうしたらいいんだろう。

 

 他人のことはどうでもいいわけではないけれど、どうしようもない側面が大きいので自分のことを考える。3月に燃えるような恋をして、4月は関係性が少し安定してきたから生活を考えるゆとりもやや出てきたけど、それに伴ってさまざまな変化が起こった。計画表をつくっていたが、とりあえず白紙に戻した。軌道修正を試みている。

 年内にオンラインショップをオープンさせる計画は続行で、しかし「なるべく早く」ではなく、煩わしいダイエットを先にこなしてしまうことにした。つまり、仕事にしたいことよりも、健康になることの優先度を上げた。

 

 薬や加齢による代謝の低下によってかなり体重が増加していたので、これまでもゆるゆるダイエットを続けてはいたけれど、去年のデータを振り返ってみると、あまり成果が上がっていなかった。そこで負荷をもっと増やす必要があることに気づき、短期間で痩せた方が生活を運動時間に圧迫されることがないという利点もあるし、その他メリットも多いので集中的に頑張ってみることにした。とはいえ、調べてみると月3kgぐらいの減量が体には無理がないらしいのでそれを目安にしている(というか限界まで頑張っても、我が家の食生活ではそのぐらいの減量が限界だと感じた)。

 

 夏までは運動中心の生活をする。読書は時間的に余裕のある午前中などにする。夏以降は仕事にしたいビーズ刺繍を頑張る。並行して和声の勉強、作曲の勉強をする。オルゴールアレンジは息抜き程度に変更する。読書は夏以降もなるべく続ける。運動は健康に良いし、パフォーマンスを底上げしてくれる効果もあるので、毎日30分~1時間はする。余裕が出てきたら家事などももっとやれる量を増やす。

 

 きっと夏以降の課題になるけれど、本当に作業に集中できるようになりたい。ずっとその課題とは向き合っている。人に言っても信じてもらえないけれど、よく健常者から「自分も同じだよ」なんて言われるけれど、私は病気をしてから著しく集中力が低下している自覚がある。そもそもじっとしていることがつらい。カフェの滞在時間だって頑張っても30分くらいが限度だし、家でもよくうろうろしているし、集中できてもその後の疲労感がすごいので、気持ちを切り替えて次の活動をするのが困難でつらい。

 

 そんな中で試行錯誤している。ビーズ刺繍にもさまざまな工程があり、タスクがあるので、一日の間に単一の作業を何時間も続けるのでなく、いろいろな作業を並行してやった方が効率は良さそう。気分転換に勉強したり、運動したりをやれたらいいけど、まだ具体的なイメージがつかめないので、自分のベストな生活リズムをつくるまでは時間がかかりそう。

 

 なかなか集中できないとき、集中しようとしているときによく母から邪魔をされる。母は邪魔をしているつもりはないけれど、これがなかなか堪える。悪気がないのは分かっているので、なんとかイライラを抑える。イライラしてしまった自分に嫌悪感を募らせる。つらい。

 

 諸々の活動の話をしたときに「たかが趣味じゃん」と言われることがある。上手く説明できないけれど、私がやりたいことは全て創作に繋がっているので、どの活動もお気楽な娯楽ではない。あらゆる活動は集中力を養うためにある。苦痛に耐えられるように作業を通して訓練している。負荷のかかり方は作業内容によってさまざまだけど、その時その時で可能なことをできる限りたくさんやるようにしている。もちろん疲れて何もできないこともあるから、そういうときは真剣にだらだらしている。「神経質すぎる」と言われるかもしれないけれど、これまで1年の半分以上は鬱で動けなかったことを考えると、私には他の人よりも残された時間が少ない。それが分かっているから、なるべくマルチタスクをしないし、休むときは思いきり休むし、やるときは思いきりやりたい。

 ただストイックが過ぎて体を壊してしまったから、ストイックにはなりたくない。それに、一度きりの人生だから出会いも大切にしたい。作業ばかりやるのでなく、人とできるだけ長く話もしたいし、交流したい。触れ合いたい。創作はそのためにやっているところもある。他者の存在は私にとって大きい。

 

 とりとめのない内容になってしまった。他人が読んでも全く面白くはないけれど、自分の今の計画を書き出す必要があったので残しておく。

会ったことのない人に恋をした

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 知らず知らずのうちに芽吹いて、花まで咲かせた名前のない植物に、私は密かに名前をつけた。その名前はここでは呼べない。

 高校のときに私は双極性障害を発症した。だから、私の物語はそこで断絶されていて、思い出を振り返ろうにも覚えていない空白の期間があるし、ライフストーリーとして、一つの生の在り方として語ることができない。断片的な記憶だけが湧いてくる。それ自体は誰にとっても経験があると思う。その断片を組み合わせることで私は私を形づくることにしている。

 私の記憶には人の姿がなかった。いつの時代でも友人も恋人も家族もいたけれど、柔らかな光や、桜の蕾や、公園の遊具の鮮やかな色味や、海面の静かな煌めき、そんな誰かにとってはどうでもいいようなことばかりが思い出される。夏を予兆する少し強い日差しに柔らかで暖かな風が心の風通しを良くしてくれた。春。

 会ったことのない人に恋をした。会ったことのない人なので、視覚的な情報のほとんどを想像で補っている。「動き方はこんな感じで、きっと歩くときはこういう感じで、人やものを見る時の眼差しはこう。笑うとこんな感じかな、ううん……」。確かにそれらはその人を構成するものだから、どうでもいいことではないけれど、私は彼の眼差しがあれば十分だった。それは誰かに奪われるものでもなく、しかし、存在していることが奇跡だった。ものを見る目。考える目。私と絶妙に違っていて、ごくたまに重なる目。心地良い彼との視差。

 彼とやりとりを始めてから時間の質が変わったのだと思う。途中までは規則的に流れていたはずなのに、話をするようになってから時間はその進み方をおかしくしていた。これは日だまりだと思った。今私たちはちょうど日だまりに居て、手足を伸ばしている状態だった。自分の中に流れる時間と時計は全く噛み合っていない。二人の間に流れている時間が拡張されていた。世間ではそれを短期間と呼ぶ。

 彼が私を好きかどうかなんて問題ではなかった。少なくとも片想いの時はそうだった。私は彼を愛する。愛情で満たす。それだけに務める。そんなことを思っていた。でも、それは場合によっては相手に失礼だと気づいた。彼の主体性を認めるのであれば、そして真に愛そうとするなら、相手の気持ちはどうでもいいわけなかった。私は途中まで「なんかこの人、人の読んでいる本をどんどん読むし、変わってるな」なんて思っていたし、「好き」と言ってくれるのは何か反応的なものにすぎないと思っていたし、メッセージに返信があるのもきっと義務感でやっているのだと思っていた。いや、そう思いたかったのだ。相手が冷めていた方が都合が良かった。利害関係のみで見てくれていた方が、上手くやれる気がしていた。

 そこまで相手を見くびっていたことに気がついて、めちゃくちゃ謝りたくなった。ごめんなさいのつもりで打ち明けてみた。大丈夫、安心してと言われた。

 「自分が彼の害になっているのではないか。私は彼に今より幸せになってもらいたい」という悩みを彼に相談した。ここでいう彼とは今まで出てきた彼ではなく、もう一人の彼であった。「彼にとっての幸せってなんだろうね。害になっていると相手が考えているのだとしたら、さすがに何らかのアクションがあると思う。その反応があるまではそういったことを考えるのは良くないかもしれない」と言われた。たしかに。

 

 「彼はNのことが好きなんだから」

 

 ……そうなの?そんなことってあるの?彼に言われてようやくそんな可能性を考え始めた。え、私好きって思ってもらえてるのかな。確認したくなった。でも、怖くてまっすぐに聞けなかった。いつも相談に乗ってくれる彼は本当に素敵だ。そもそも私が恋をすることに否定的でないのも不思議な話だ。否定され続けた過去を思い出してしまいそうになったけれど、今向き合うべき人は彼に違いない。

 さすがに彼のように素早く相手の読んでいる本を読んだり、映画を観たりはできないけれど、私も少しずつ真似てやってみようと思っている。趣味が合うか合わないかはわりとどうでも良くなってきた、というか違うことは前々から分かっていたので、その差を楽しめたらいい。ゆっくり築いていけたらいい。

いつか世界に溶けていく

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 いつか世界に溶けていくことを、私は肯定的にも否定的にも捉えたくないと直感的に思っていた。なぜならそれが救いになろうと、不幸の元になろうと、人為的秩序の世界において存在するだけの人間の価値観に過ぎなかったからだ。ただ世界に溶けていくこと、それは閉じられるのでもなく、拓かれるのでもない。私の、いや人の通過点に過ぎなかった。

 また、いつか世界に溶けていくことを、わたくし個人が居るべきか居ないべきかという自我(生活圏の私)の問題に直結して考えるべきことでもなかった。当然あなたが居ても居なくてもいいということでもない。どうでもいいことなんて何一つないと思っているが、「どうでもよくない」と今主張したいわけでもない。分かり得ないことは分からないと諦めに似た感情を言いたいわけでもなかった。

 生活圏にいる私という存在は、私を肯定するし、他者をも肯定するが、それは暫定的にわたくし個人が決めたものだった。そういった人間的な取り決めの世界を超えた私たちは「在る」と「無い」を揺動し、蠢いているような存在だ。パラフレーズすれば、人はたとえ生きていても、絶えず世界に溶けかかったり、浮き立ったりを繰り返している。夢を見たり、意識が飛んでいたり、思考から離れていたりする時、私達は其処にいるのではなく、世界に溶けている。

 

 物質の不確かさよりも観念の存在に取り憑かれている自覚がある。概念は物自体に即していて心の働きと関係なく他者と共通するが、観念は対象物に対して認識されたものであり、個人的なものだ。本当は言い表し得ないものを言葉で表現できてしまうことに違和感を覚えずにはいられないが、それはそれとして、人と分かち合うことができない観念は、一見存在するかどうかすら怪しいのに、はっきりと私の中に存在していると感じる。例えば美は文脈によっては概念ともなれば観念ともなり得るが、観念としての美を感じとる時、私は言いようのないものの存在を強く感じている。ところがそれを言葉にすれば、忽ち観念的な性質は失われ、認識的概念へと変貌している。そのような存在に私はひどく取り憑かれ、頭の半分はもう奪われてしまった。


 世界に溶けていくと観念は消えてしまう……。私が喪失を考える時はいつもそのことを思う。廃墟には観念の顕在化しない蠢きが、そしてかつて存在したものの断片があった。その断片を徐ろに拾い上げて私がこれから何をなくすのか考えた時、それは私という存在ではなく、私の中にある人と分かち合えない何かだった。

埋葬

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悲しみを通り抜けて、海の森に浸かっている。

生き物はすべて去った後だった。私は一人で何かを待っている。

 

風との抱擁は掴みどころがなく、まっさらで空虚だ。

それでも風と抱き合うことに私は意味を見出したがった。

 

私の見つめる瞳には何が映るのだろう。

海の色も空の色も溶け込んで、

しかし、ただ一色であるはずのない、多様な世界をそこに湛えている。

 

海の森を歩いていると、

戦いに敗れた者の、思い出だけが生き甲斐のような人を知る。

余生を過ごす若者の、灯火では明るくならない街に、

私はただ祈ることしかできない。

どんなに悲しくても傷を負った足のない青年に、ついに同情することはなかった。

 

青年の魂は跡形もなく消えたのか。

そんなはずはない。

葬られるのはきっと思い出ではない。

私の愛。

私がファッションにこだわらなくなった理由

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 私は高校生のときからファッションが大好きだった。ファッション雑誌を何冊も購入し、さまざまな系統のファッションを見て、コーディネートを学んだ。好きなモデルもいたし、好きなファッションスタイルもあった。「ギャルは嫌だけど、OLさんのようなお姉さん過ぎる服も扱いにくい、その中間のスタイルがいいな」と思っていて、それはある雑誌の対象ど真ん中のスタイルだった。この雑誌は使える!と確信した私は、その雑誌が廃刊となるまで何年も欠かさずに読み続けた。

 しかし、私がファッションを躍起になって学んだのにはわけがあった。中学時代の自分がとにかくダサかったからだ。それは明確に自覚があり、変えようと思えば変えられたことだった。でも、当時の私にはファッションに時間と労力を費やす重要性がまるで感じられなかった。恋愛もよくわからなかったし(恋愛をするほど心が発達していなかった)、勉強に力を入れていたし、そうでなくとも詩や音楽などの芸術が楽しかった。

 そして、当時は学校の校則をきちんと守ることもダサいと思われていた。制服のスカートの丈はたっぷり長めだとダサくて、違反にならない程度にできるだけ短めにするのがオシャレな人の特徴だった。髪の色も地毛で茶色い人は勝ち組で、何らかの方法によって自然な感じで茶色くしているのがオシャレな人の特徴だった。お財布はブランド物が鉄板で、それ以外はダサいという感覚が皆の中になんとなくあるのが分かった。

 今でも理解し難いけれど、とにかくそのようなことが鬱陶しくてどうでも良かった。だから私は中学でオシャレすることを初めから諦めていた。というより、オシャレすることを頑なに拒絶していた。

 ただ、そんな中学時代に気になったことがあった。容姿が整っている人はそれだけで周りの反応が良いような気がした。「オシャレにしていると、良いことがあるのかもしれない」そんな予感があった。だから、高校生になったらファッションの勉強をして、オシャレな人たちに追いつくぞと私は密かに決心していた。

 高校生になり、ファッション雑誌を解禁して学んだ。そこから分かったこと、分からないこといろいろあった。私、意外とファッションが好きなんだなと気づいた。色彩感覚を使えるし、形やバランスも関係があるのでなかなか奥が深い。オシャレな女の子たちだと思っていた人たちよりもいつの間にか洋服に詳しくなってしまった。大抵のリアルクローズブランドは知っていた。というより、知りすぎていた。洋服オタクだった。そしてそのままアパレル関係の仕事がしたくなり、アルバイトとして数年経験した。

 それから現在に至るが、今はあまり服にこだわっていない。なぜかというと、洋服は変わらず好きだけど、自分はファッションを記号的にしか扱っていないことに気づいてしまったからだった。


 服を着ることは、複合的な意味をもった営みだと思った。当たり前に理解されていることかもしれないが、昔の私にはそこが見えていなかった。現代の人にとって服を着ることにどのような意味があるか、思いつく限りあげてみる。第一に、防寒や作業で害虫から身を守る必要性としてのもの。第二に、美的感覚を追求するもの。第三に、自分の嗜好を追求するもの。第四に、記号的、言語的なコミュニケーションとしてのもの。

 第一は説明するまでもないが、原初的な意味として捉えてもらって差し支えない。実用性を重視する場合も当てはまると思われる。

 第二は、身体をよりよく見せたり、服としての芸術的な美を追求したりするものである。コレクションブランドについてはあまり詳しくないが、ショーに出てくる斬新で新鮮味のあるものがここに該当する。リアルクローズとは違って、(実際に着て街を歩けるかなどの)実用性をあまり求めない傾向がある。

 第三・第四はリアルクローズ、つまり我々の普段のファッションと大いに関係がある。第三は、自分の好みの色や形、模様、ブランドを身につけたいと思って身につけるようなことである。第四と区別している点は、他者の存在と関係なく、それを身につけることで満足するような意味合いが強い点である。第四は、他者と関係が深い。私が洋服を着るときに重視していたのもこの第四項である。第四は、ある服を着ることでそれが他者から見たときにどのような意味として機能するかおおよそ理解し、主張するもの、そして、他者の身につけているものからそれが何を示しているのか記号的意味を理解するものである。第四の場合、相互的に意味合いを同じく理解している必要はない。理解の深度は人によってそれぞれだ。同じ本を読んでも感じ方に違いがあるのと似ていて、同じ服を見ても感じ取れることはさまざまであるし、多くの人が理解できるような分かりやすい記号的意味も含まれていることが多分にある。それが服を着ている人の思惑、狙いと違うことも当然ある。

 ファッションには様々な構成要素があるが、色彩の面だけをとって見てもさまざまなメッセージを込めたり、見出したりすることができる。黒は色彩的には肉体をそのまま浮き立たせる。身体をリアルに映し出すことが可能な色である。黒を基調としたファッションは、さまざまなスタイルにおいては王道や無難と呼ばれながらも、モードファッションとして先鋭的な表現をする場でも使われる。紺色は寒色であり「締め色」として引き締まったシルエットを表現することができる。実際よりシャープに見せ、知的な印象を醸し出す。色彩心理学的にどうなのかまでは把握していないが、紺色のスーツやネクタイがビジネスシーンでは見られるし、女性ファッション誌でもネイビーは「知的」「品がある」と謳われ、かしこまった場面での相応しいカラーとして選ばれることも多いことから、歴史的、経験的にそのような印象として我々には刷り込まれている。同様に見ていくと、淡いピンクは膨張色でもあり、柔和な印象を持つため、女性に愛されてきた「女性らしい色」であると感じられる。
 そのように感じられるものを身に着けることで、例えばネイビーのワンピースを着ることで「私は上品な人である」という主張をすることができるし、見た人は「あの人は上品な人だ、品があるように思われたいのだ」と認識する。
 私は分かりやすくするためにあえて色彩という要素だけをメインに話したが、現実のファッションはもっと複雑で高度な意味合いを持つ。洋服に詳しくなればなるほど、その記号性、言語性は豊かになっていく。服は誰もが身に着けているものであるため、ファッションに無頓着な人もその例から溢れることはない。「着るものには無頓着だ」というメッセージを見る人が見れば感じ取ってしまう。なるほど、ファッションにはあまり関心が人なのかという理解を周囲の人たちはなんとなくする。素材感や微妙な色味や丈感など細部にまでこだわっている人は、見る人が見れば着ている人がその服で表したい何かが分かるはずである。
 逆にオシャレに無頓着な人から見るとどうだろう。着るものに無頓着であると、他者を見たときもざっくりとした所感だけになり、感じ取れることが少ないため、尚更ファッションにこだわってみようという気は起こらない。起こらないだけでなく、なんとなくオシャレな人たちを嫌悪する感覚さえ抱く。

 

 ここまで書けば私がファッションにこだわらなくなった理由はなんとなく分かるかもしれない。ファッションにおける記号の習熟度といえばよいのだろうか、その理解の深度によって人と人の間でなされるコミュニケーションの質的なばらつきがなんだかもう嫌になったのである。そして、各々の着ているファッションがなんとなく漂わせている記号に過剰に反応することに疲れてしまったのだ。これは一般的なファッションに対する価値観や感覚とはズレているように思うので、私個人の体験・思考であることを念押ししておくが、私にとってのファッションは過剰なまでにすべてが記号的だった。男の人にウケが良い格好だとか、百貨店に行くと店員さんがにこにこと丁寧に接客してもらえるような格好だとか、女の子と遊ぶときに話題の一つになるようなオシャレな格好だとか、目上の人に良い印象を持たれる格好だとか今日は誰にも話しかけられたくない格好だとかそういうことだ。メッセージを放ち、他者のメッセージに耳を傾けることを全くやめたわけではないけれど、トーンダウンしてもっと気楽に過ごしたくなった。だから私は第四項のような目的で服を着るのはもういいかなと思うようになった。

 

 ただ、リアルクローズの楽しみとしては、第四項よりも第三項がより強力で豊かな楽しみ方だと思うし、本当に普段着る服を楽しんでいる人は自分の「好き」を追求している人なのではないかと推察する。つまり、ファッションは自己と向き合うことの楽しみや喜びを教えてくれるものになりうる。私が接客をしていて楽しかったのは、「この柄が可愛い」とか「この形が好きで」とか、お客様が好きなものを教えてくれる瞬間や、それを身に着けることで笑顔を振りまいてくれたことだった。だから第三項の意味でファッションが好きな人のことは大好きだし、私もそういった素朴な「好き」を追求することで今後は楽しめたらいいと思っている。

(勢いで書いたので推敲が甘く、書ききれなかったことも多いと思うので書き直すかもしれない。自分メモ)